2月の終わりごろ、新型コロナウィルス感染拡大を防止するために全国一斉休校の要請があった。
これには子どものいる家庭も学校も企業も混乱した。
しかし、長い休みという点で言えば、夏休みなどの長期の休みは毎年あるわけだし、ゴールデンウィークも年によっては1週間ほどになるときがある。
いつもの長期の休みととの大きな違いは、一つは「突然だった」ことだろう。
わたしも発表された直後にアトリエの保護者の方からの知らせを受けて驚いた。
突然だったので、何から考えていいかさっぱりわからなかった。
準備期間がなかったことは混乱と焦りを招いたように思う。
二つ目は 長期の休みのような楽しみにできるものではなく、「不安の中で」日常が崩れたことだと思う。
つまり、大きな違いは「大人が混乱した」上での長期の休みであるということのように思う。
休校に入って少し経つと、子どものストレスについて様々なニュースが流れた。
他の地域のことは詳しくわからないが、アトリエの子どもたちによると、休校中は外に出て遊ぶことはできないらしい。
自治体によっては、習い事等も自粛するよう通達があったようだ。
神戸市の場合、留守番できない子どもを学校が預かってくれているようだが、1日中会議室などで過ごさなければならない学校もあるようだ。
公園などは屋外だし、仲良しの数人で遊ぶならリスクも極めて小さいように思うが、様々な事情があるらしい。
確かに生活の突然の大きな変化は大人も子どももダメージを受ける。
今回の場合は仲良しの友だちといつものようにくっついて、じゃれあって遊べないことや多くの友だちと一緒に汗をかきながら身体を動かすことができないのも苦しいだろう。
しかし、子どものダメージは学校に行けないことよりも、身近にいる大人が不安を抱えていること、動揺していることの方が影響しているように思う。
手洗いも「しっかり洗わないと危険!」と思いながら促すのと、「しっかり洗ってると安心だよ」と思いながら促すのとでは大きく違う。
子どもは大人の心のコンディションを敏感に感じ取るアンテナを持っているからだ。
25年前の神戸の震災の後、普段と変わりなく過ごしている子どもたちも、実はとてもいろんなことを我慢していることを絵で伝えてくれた。
「怖かった」
「だっこしてほしい」
「わかんない!」
などなど、その小さな心の中に苦しいものを抱えていたが、あまり言葉にはしなかった。
いつもなら、駄々をこねてみたり、わがままをいってみたりすることも心の中に抱えたままがんばっていた。
家や職場の再建、生活の立て直しに奔走する大人たちに対して、とてもじゃないけれどそんなことを言えるときではないとわかっていたようだ。
子どもたちも大人の苦しみを一緒に抱えてくれていた。
とは言え、今の状況では誰であれ不安を抱えていてあたりまえだ。
いつもと変わらず叱られていたり、ダラダラしているように見える子どもたちも、実は大人たちの不安を一緒に抱えてくれていることを知るだけでいい。
多くの人たちが不安を抱える日はまだ続く。
子どもたちは疲労を出す場があるのか。
わたしたちはできるだけたくさんの子どもに、苦しく思っていることを遠慮なく表現する場をどう届けるか。
自然災害など緊急時のファーストエイドとしての子どものセラピーの方法はわかってきたけれど、今回のように直接関わることが難しい場合は、また実践と研究が必要だ。
表現された苦しみを受け止めることができる大人が増えてほしい。
これには子どものいる家庭も学校も企業も混乱した。
しかし、長い休みという点で言えば、夏休みなどの長期の休みは毎年あるわけだし、ゴールデンウィークも年によっては1週間ほどになるときがある。
いつもの長期の休みととの大きな違いは、一つは「突然だった」ことだろう。
わたしも発表された直後にアトリエの保護者の方からの知らせを受けて驚いた。
突然だったので、何から考えていいかさっぱりわからなかった。
準備期間がなかったことは混乱と焦りを招いたように思う。
二つ目は 長期の休みのような楽しみにできるものではなく、「不安の中で」日常が崩れたことだと思う。
つまり、大きな違いは「大人が混乱した」上での長期の休みであるということのように思う。
休校に入って少し経つと、子どものストレスについて様々なニュースが流れた。
他の地域のことは詳しくわからないが、アトリエの子どもたちによると、休校中は外に出て遊ぶことはできないらしい。
自治体によっては、習い事等も自粛するよう通達があったようだ。
神戸市の場合、留守番できない子どもを学校が預かってくれているようだが、1日中会議室などで過ごさなければならない学校もあるようだ。
公園などは屋外だし、仲良しの数人で遊ぶならリスクも極めて小さいように思うが、様々な事情があるらしい。
確かに生活の突然の大きな変化は大人も子どももダメージを受ける。
今回の場合は仲良しの友だちといつものようにくっついて、じゃれあって遊べないことや多くの友だちと一緒に汗をかきながら身体を動かすことができないのも苦しいだろう。
しかし、子どものダメージは学校に行けないことよりも、身近にいる大人が不安を抱えていること、動揺していることの方が影響しているように思う。
手洗いも「しっかり洗わないと危険!」と思いながら促すのと、「しっかり洗ってると安心だよ」と思いながら促すのとでは大きく違う。
子どもは大人の心のコンディションを敏感に感じ取るアンテナを持っているからだ。
25年前の神戸の震災の後、普段と変わりなく過ごしている子どもたちも、実はとてもいろんなことを我慢していることを絵で伝えてくれた。
「怖かった」
「だっこしてほしい」
「わかんない!」
などなど、その小さな心の中に苦しいものを抱えていたが、あまり言葉にはしなかった。
いつもなら、駄々をこねてみたり、わがままをいってみたりすることも心の中に抱えたままがんばっていた。
家や職場の再建、生活の立て直しに奔走する大人たちに対して、とてもじゃないけれどそんなことを言えるときではないとわかっていたようだ。
子どもたちも大人の苦しみを一緒に抱えてくれていた。
とは言え、今の状況では誰であれ不安を抱えていてあたりまえだ。
いつもと変わらず叱られていたり、ダラダラしているように見える子どもたちも、実は大人たちの不安を一緒に抱えてくれていることを知るだけでいい。
多くの人たちが不安を抱える日はまだ続く。
子どもたちは疲労を出す場があるのか。
わたしたちはできるだけたくさんの子どもに、苦しく思っていることを遠慮なく表現する場をどう届けるか。
自然災害など緊急時のファーストエイドとしての子どものセラピーの方法はわかってきたけれど、今回のように直接関わることが難しい場合は、また実践と研究が必要だ。
表現された苦しみを受け止めることができる大人が増えてほしい。