秋の三連休の中日、子どもたちはゆっくりと集まってきて、のんびりと絵の具を楽しむ子、立体作品に夢中になっている子。見ているだけでほっとする、いつもの「あおぞら」の光景が広がりました。(9月15日:大倉山公園)
夢中になる、楽しくなる
始めて来てくれた小学5年生のYくんの作品は、次々とその姿を変えました。
作品の姿が変わるたびにYくんの集中力は高まり、まるで作品と対話するかのように見えました。
この日のYくんの最後の作品は軽快な音が響くマラカス。
Yくん曰く、「いや、『ワラカス』」とニコニコ。
つくりながら思わず歌を歌う子どもはたくさんいますが、受付では少々緊張した表情を見せていたYくんの気持ちが解放され、Yくんの中から楽しいリズムが湧き出したことがうかがえました。
絵が描けない、と心配なときは
また、やはり始めて来てくれた小学生の兄弟は、お母さんが「やっと来れました」と話してくれました。「お兄ちゃんの方が絵が全然ダメで。学校の先生に相談すると、ここを勧めてくれたんです。
その先生自身のお子さんもここに数年通われたとかで・・」。
これには少々驚いてしまいました。
なぜなら、ここ「あおぞら」には絵の指導は一切ないわけですから。
お母さんの言葉には少々驚きましたが、それよりもはるかに大きな納得がありました。
ご自身のお子さんが絵の指導がない「あおぞら」に数年通って、その結果見つけた答が「絵が描けなくて心配なら、「あおぞら」へ」だったとしたら、それは保護者がその子にあった表現方法の芽が子どもの中にに育ったことを感じられたのかもしれません。
また、どんな表現も否定をしない、つまり心の呼吸を止めない環境が、描くことを嫌いにさせなかったということも考えられるでしょう。
いずれにしても、お子さんにとって何かしら良いものが得られたことは間違いありません。
しかも数年の時間をかけての結論ですので、単に「楽しかった」という体験だけではなかったことも確かでしょう。
「絵が描ける」というのは、「本物そっくりに描ける」だけの力ではありません。
思いのままに色を選ぶ、気持ちにぴったりの色や線、形を感じることでもありますし、絵の具など画材や素材の魅力や新しい使い方を発見したりすることでもあるでしょう。
想いを眼に見える形にしたり、感じたりすることでもあります。
ですから、特に子どもの絵は線一本、形ひとつ、色一つにメッセージがあります。
これらが受け止められたとき、子どもは安心して自分の言葉で表現します。
それはやがて描くことに夢中になることへの入り口となり、そして楽しくなって、その子にしか生み出せない作品の誕生へとつながっていきます。
さて、渦中のお兄ちゃんは、受付で工作もできると聞くと、とたんに眼を輝かせました。
なんだ、この子はアートが好きなんだ!全然心配ない!
今は立体物での表現が楽しく、ぴったりくるのでしょう。
彼の平面の作品に出会える日もそう遠くはないと思っています。