ようやく梅の花が咲き始めました。春が近づいてきましたね。あおぞら色彩楽園も3月よりいよいよスタートします。早くみんなに会いたくて、待ちきれないよ!
公園での自由なアートスペース、あおぞら色彩楽園もおかげさまで30周年を迎えました。阪神・淡路大震災で被災した子どもたちのケアから始まって、今では子育て支援の場としても続いています。多くの方々に支えられている「あおぞら」ですが、30年の中では存続の危機もありました。
あおぞら色彩楽園は1995年にスタートして、1997年には開催場所を大倉山公園に移動しました。このとき、被災した留学生の支援のために誕生したロータリー子どもの家(現神戸真生塾子ども家庭支援センター)との共催で毎月開催し、夏休みには「おもいっきりおえかき大会」も開催しました。非常に多くの参加者を迎えていましたが、共催していたロータリー子どもの家が撤退したんです。このとき、色彩楽園の単独開催で活動が続けられるのかどうか、藤井さんは本当に悩んだそうです。
なぜなら、ロータリー子どもの家には現在も倉庫や備品運搬のための車をお借りしたりして、お世話になっています。しかし、色彩楽園だけで開催するとなると、特に資金的には非常に厳しい状況になってしまいます。ボランティアスタッフの交通費すら支給もできません。何ヶ月か悩み抜いたあげく、2014年からは色彩楽園の単独開催事業となりました。
このとき、藤井さんはどんなことを考えたのか、聞いてみました。
くますけ:色彩楽園だけで開催と決めたときはどんな気持ちだったの?
藤井:もう、なんとも重苦しい気持ちでいっぱいでした。もしも、あおぞらスタッフがボランティアを続けられないということになったら、あおぞら色彩楽園は開催できないからね。いよいよ「あおぞら」も終わるのか・・・とも考えました。
くますけ:あおぞらスタッフに伝えたときは?
藤井:2014年1月のあおぞら研修の日に、この活動の歴史や関わった多くの人たちの想いなどを改めて伝えて、この春からは交通費さえも支給できないことを知らせました。この状況でも「あおぞら」に関わってもらえるなら、改めてスタッフ登録をしてほしいと。このことを口にしたときの緊張は、もう、しばらく感じたことがないほどで、心拍数が急激に上がるのがはっきりわかりました。
くますけ:あおぞらスタッフたちはなんて言ったの?
藤井:それがね、もうびっくりしたんだけれど、あおぞらスタッフは、少し驚いてはいたけれど、異議を唱えたり、不満を漏らしたりすることはなかったのよ。それどころか、それならばと、それぞれが今後の活動資金確保のアイデアを口にし始めたの。まるで「そんなことはたいした問題ではない」とでも言いたげだったね。それだけじゃなくて、前の年に続いて(東日本大震災で被災した)福島県での「あおぞら」開催のための資金集めをみんなでがんばりたいという気持ちを表してくれたんです。
交通費の支給がないボランティアは珍しくないんだけれど、あおぞらスタッフは毎回活動に参加できることが登録の条件です。さらに子どもに関しての様々なことを自分で勉強しなくちゃいけないの。自分で状況を判断して対応する高い能力が常に求められて、強い責任感を持ってくれています。中には心理や教育を勉強中の大学生もいたし、当時は遠く広島から毎月参加している人もいました。せめて交通費くらいは、という想いは当然のことだと思ってたんです。
くますけ:すごーい!できるだけ多くの子どもや保護者を支えたいというあおぞらスタッフの情熱は、藤井さんの想像を遥かに超えた大きなものだったんですね!
藤井:うん、そうね。交通儀なんて、どうでもよかったのかも。あおぞらスタッフはプロ集団なので、子どもの育ちや保護者にとって何より大事なことがわかってるんだよね。子どもたちにとって理想のアートスペースを維持できるのなら、それが最も大事と思ってくれているんだと思うよ。
あおぞら色彩楽園は、神戸市社会福祉協議会善意銀行の助成とあおぞら募金で活動しています。スタッフにはできるだけ交通費を支給していますが、支給した交通費を「募金です」と言って募金箱に入れてくれています。
この、あおぞら色彩楽園存続の危機のときも、新型コロナウィルスで開催が難しくなったときも、あおぞらスタッフみんなで知恵をしぼり、挑戦し続けて危機を乗り越えてきました。その時々で進化を続けてきたと思います。
あおぞら色彩楽園30周年は、あきらめずに挑戦し続けた30年。
支えてくださっている多くの方々の想いがつまった30年です。
(写真は2015年。20周年のときのあおぞらスタッフです)